日蓮宗 運千山 真養寺

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庶民信仰と当山

当山本堂 祖師(日蓮聖人)像

当山本堂 祖師(日蓮聖人)像

折伏・開運の祖師

 当山にかつて安置されていた宗祖 日蓮聖人像は、日親上人の作で、俗に「折伏[しゃくぶく]の祖師」「開運の祖師」と呼ばれ、人々の篤い信仰が寄せられていました。

 日親上人は、「日蓮聖人の生まれ変わり」と称された高僧で、日蓮宗を行動と理論とによって「真の佛法」として布教し、時の権力に抗しながら三十有余の寺院を建立しました。

 度重なる法難を少しも恐れず、布教の実践論『折伏正義抄』を著し、さらに『立正治国論』を書いて時の将軍 足利義教[あしかが よしのり]に対し、他宗の信仰をすべて打ち捨てて日蓮聖人の教えを信奉せよ、と進言(諫暁という)しましたが、讒言[ざんげん]によって捕らえられ、獄につながれてさまざまな激しい刑罰を処せられました。そのおり、真っ赤に焼けた熱々の鍋をかぶせられる拷問[ごうもん]にも耐え、この苦しみこそ日蓮聖人の再体験であるとして悦びに浸ったと伝えられることから、日親上人を俗に「なべかむり日親上人」と呼ぶようになりました。

 勇猛にして豪壮の傑僧といわれ、“行動の上人”ともいわれた日親上人が一刀三礼して刻した日蓮聖人像であることから、折伏の祖師像と称されるに至ったと伝えられています。のちに祖師像信仰が一段と広まると、折伏の祖師は開運の祖師とも称されるようになりました。

 しかし、真に残念なことに、昭和19年(1944)の東京大空襲によって当山一帯は完全な焼野原になり、祖師像は焼失してしまいました。もしも、現在も残っていれば、文化遺産ほどのお像であったことでしょう。現在、当山本堂に祀られている祖師像(上図)は当山第30世 寛厚院日修上人が本山堀之内妙法寺の時の御山主よりご寄贈いただいたもので、大空襲後の悲惨な状況下で狭い場所を当山境内に本堂として こしらえ、この祖師像を信仰し、当山を木柾(日蓮宗における木魚にあたる)一つで守り抜いてくださり、いまに至ります。

 祖師像後方に安置されているのは本金の釈迦如来像であり、本堂建立の際に、当山檀信徒から御奉納賜りました。

鬼子母神像

 かつて真養寺には鬼子母神像が安置されていました。
 鬼子母神は金光明経に説かれる護法神で、訶利帝母[かりていも]、歓喜母、愛子母とも呼ばれ、もとは1,000人の子をもちながら他人の子をとらえて喰らう悪女鬼でしたが、佛に教化[きょうけ]されて改心し、児女を愛護する善神になったといわれ、日蓮宗では法華経擁護[おうご]の神として尊崇されています。
 寛政4年(1792)に当山第13世 勇猛院日逞上人によって記された『真養寺旧記』には、万治2年(1659)に自性寺が開創されたおり、吉田勘兵衛によって鬼子母神堂が建立されたと記されています。
当山本堂 聖観音像

当山本堂 聖観音像

観音菩薩像

 観音菩薩は、正しくは観世音菩薩、あるいは観自在菩薩といいます。すなわち、法華経で登場する観世音菩薩と、般若(波羅蜜多)心経で登場する観自在菩薩とは同一の菩薩なのです。
 衆生が救いを求める声を聴くと、相手に応じて随時その姿を変えて自在に救いの手を差し伸べるということで、衆生に覚りの法を説く如来に対し、衆生に現世利益を施すといわれています。
 一般に「観音」と呼ぶ場合は聖(あるいは 正)観音を指しています。これは十一面観音、千手観音、如意輪観音といった変化[へんげ]観音に対したもので、その像容は、宝冠に阿弥陀如来の化佛[けぶつ]をいただき、右手は施無畏[せむい]印、もしくは与願[よがん]印を結んでおり、左手に慈悲心を表す蓮華を持ちます。ここに、施無畏印とは右手を手のひらを表前にして上げる印で、逆に、与願印とは右手を手のひらを表前にして下げる印です。図からわかる通り、当山聖観音像は、右の手のひらを地面に平行に、かつ、上表にしていますから、施無畏印と与願印と丁度間の印を結んでおり、どちらの印なのか判断しかねます。「もしくは」と申したのはそのようなわけであります。
 当山に現在も安置されている聖観音像は、右手に宝珠を持つ立像です。左手は心もち上にあげて何かを持つ形をとっていることから、かつては蓮華をもっていたものと思われます。観音菩薩のなかで、宝珠つまり如意宝珠を持つのは如意輪観音だけといわれており、当山の聖観音像は非常にめずらしい像容といえましょう。
 ちなみに如意宝珠とは、意の如く金銀財宝や衣服[えぶく]飲食[おんじき]などを出し、病苦を取り除くといわれます。
当山本堂 大黒天像

当山本堂 大黒天像

大黒天像

 大黒天の梵名は魔訶迦羅[まかから]天といいます。「魔訶」は「大」、「迦羅」は「黒暗」の意であるところから大黒天と呼ばれるに至りました。大黒天は、もとは古代インドの神でしたが佛教に取り入れられ、寺院の守護神、豊饒[ほうじょう]をつかさどる護法神として祀[まつ]られていました。しかしのち、甲子待ちの主尊として、また福徳信仰の代表として、近世以降は庶民に馴染みの深いものとなりました。
 当山に現存する大黒天像は、左肩に大きな袋を背負い、右手に打ち出の小槌[こづち]を持って米俵の上に立つ像容です。
 図において大黒天像の左隣りにある石は、当山本堂(第31世期)建設時、当山第31世の現住職を導師として地鎮祈祷法要を行ったおり、地面から土をかき分け“ひとりでに”出現した、奇妙でありながら当山には個人的想いの深い石です。
当山山門 浄行菩薩像

当山山門 浄行菩薩像

浄行菩薩像

 菩薩は、覚りの境地を求めて自ら修行しながらも、人々の教化、および救済の誓願を立てているといわれます。そのなかでも、浄行菩薩は、水徳による来世の衆生済度を誓願としており、病に苦しむ者がその疾患部を清めて祈願すると、たちまち快方に向かうという霊験顕かな菩薩であります。
 当山に安置されている浄行[じょうぎょう]菩薩像は、当山第31世期本堂の建立にあたり、当山檀信徒家の篤い信施によって造立されました。
 当山の浄行菩薩像は、ここ数年 山門横に安置されていますが、それは檀信徒のみならず当山無縁の通行人にも、お像に水をかけ 手を合わせていただければ、と思ってのことです。当初より「浄行さん」の呼称で親しまれてきた、このお像への信仰を再び取り戻したいところです。
 昨今、日本各地のあらゆる寺院の佛像などが汚されるという、世にいう“バチアタリ”という言葉の似合いそうな酷い行為がなされておりますが、そのような時代の中、当山の「浄行さん」は門外に安置してあるのにも関わらず、一度も汚されたことがありません。これは(本来はそれが当然なのですが)現代にあってはとても誇り高いことで、まさに「浄行」という名前に適したお像でありましょう。だからといって気は抜けませんが、これからも“きれい”にあり続けてくださるよう、大切にして参りたいと考えております。
当山東墓地 釈迦如来像

当山東墓地 釈迦如来像

願掛けの釈迦如来像

 当山の東墓地(本堂側の墓地)には、当山歴代諸上人の御墓の左隣りに、施無畏与願印の印を結んだ釈迦如来像が安置されています。

 施無畏与願印とは施無畏印と与願印とを合わせた印のことで、当山の釈迦如来像は右手で施無畏印を、左手で与願印を結んでいます(図参照)。施無畏(もしくは無畏施)印は励ましを表すもので、恐れる必要のないことを私たちに示す印です。一方、与願印は私たちに何かを与えようとなさる仕草を表した印です。これら両者を合わせた施無畏与願印は、私たち信者の願い事を聞き入れ、叶えてあげようとする意志を表明する印であり、そのことから、当山の釈迦如来像は願掛けのお像であります。

 宗教信仰において、“正しい”お願い事の仕方とは、具体的に「こうなりたい」「ああなりたい」という想いを述べることではなく、自分の人生を振り返ったとき、結果としてそのようなことになって良かったと感じられるような、そういう意味で最善な結果をどうかお与えくださいと、お祈りすることではないかと思います。当山の願掛けの釈迦如来像をお見かけされたおりには、どうぞ、お手を合わせ、水をおかけし、線香をお供えし、心の依り処として大切にしていただけたら、と思います。

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