当山ブログ
迎え盆法要に際する、灯籠の件について
昨日は、7月13日、すなわち、お盆の始まりの日でありました。いわゆる「迎え火」を焚いて、ご先祖様方をお迎えする日です。当山では、ここ数年に亘り、この7月13日に【迎え盆法要】と称する年中行事を厳修しております。やはり、今年も例年のごとく午後4時から行いました。
火を灯す理由はいくつかあるようですが、一番の理由は、その火をたよりにしてご先祖様方がご帰還をなさるから、というものです。当山の迎え盆法要でも、燈明供養というものを行っており、檀信徒の皆様方のご希望する各霊位に献灯をし、皆でお経や御題目をお唱えし、供養をします。
しかし、お盆というのは、あくまで私たちの家にご先祖様方がお戻りになられるという時期。したがって、どうしても迎え火は、それぞれのお家でお焚きするものでしょう。ですから、当山では純粋に迎え火とするのではなく、献灯という供養の形にさせていただいておるのです。当初は、お使いした灯籠をお家へお持ち帰りいただき、引き続き迎え火として再灯し、お迎え・ご供養をしてほしいな、と考えておりました。ところが、本物のろうそくを使いますもので、熱くなった容器を冷ますのにも時間がかかりますし、何より、火をつけてしばらくすると、たちまち透明な液体状になってしまい、持ち帰ることがかなり困難であることが、昨日、土壇場で判明致しました。
そこで、再検討をしましたところ、やや残念でありますが、来年より、迎え盆法要では何もお持ち帰りいただかず、ただし、ご帰宅されてから迎え火を(電気式ではなく、本物のろうそくに)焚き、ご自宅でお迎え・ご供養をしていただこう、と決めました。壇信徒の皆様方には、どうぞこのことをご了承の上、ご供養にお勤めいただけたら、と存じます。
節分と豆まきのおはなし
本年は、喪中のため新年のご挨拶ができませんでしたが、今年一年の皆様方のご健康とご多幸をお祈り申し上げたく存じます。本年も一年、よろしくお願い致します。
さて、先月の法話の会でお話させていただいた内容をご紹介させていただこうと思います。
2月3日は節分の日ですね。皆さん、恒例の豆まきをなさることでしょう。「ふくは~うち~」「おには~そと~」というやつですね。もはや習慣となって久しすぎますが、そもそも、この節分の日だとか、豆まきの儀だとかは、どういう意味なのでしょうか。
「節分」とは「季節の分かれ目」の意味で、本来、節分は立春・立夏・立秋・立冬の四つあったのですが、旧暦では私たちがいま春と考える頃が1月に相当していましたので、「年を越す」という意味で旧暦的に立春が最も重要な節分になると解釈され、現在では立春が代表して節分と見なされるようになります。そうして、節分といったら2月のことになったのです。
さて、この節分の日には豆まきをして、鬼を退治して福を呼び込むという儀式を行います。元来は鬼を退治するのがメインで、福を呼び込むのはサブでありました。ところが、現在、例えば当山の法縁関係である本山堀之内では「ふくはうち」しか唱えず、「おにはそと」は一切口にしません。どうやら鬼を外へやることよりも福を呼び込むほうに重点が置かれてきているようです。
鬼とは、もともと邪気などの実態のないもののことでしたが、「隠人(おんにん)」と次第に書かれるようになり、いわゆる妖怪化をし、具現化することになります。ですから、鬼退治の元来の意味は邪気や魔の退散であったわけです。
ですが、とはいえ、なぜ豆をまくことが邪気や魔の退散になるのでしょうか。これにはやはり諸説ありますが、最も有名なのは次の説です:
①豆は五穀の一種であるが、五穀は昔から「生命」を象徴し、暗黒とは対極の陽を表す。したがって、暗黒に位置する邪気や魔を陽なる五穀、特に豆、でもって追い払うのである。
しかし、ではなぜ五穀の中でも豆が選ばれたのか?米ではいけないのか?という疑問が出てきます。どうやら、それは語呂合わせに答えがあるようです:
②「魔の目に豆を当てて魔を滅する」をもって、豆による鬼退治となす。
おわかりでしょうか?「魔の目」と「魔を滅する」とに、「まめ」をかけているわけです。一種の駄洒落であります。以上のような理由から、私たちが現在もなお行っている豆まきという行事が浸透していきました。
「古来よりの伝統」と云われ、何気なくやっていることも、そのルーツを探ってみると、なかなか奥深くおもしろいものです。
声明師養成講習所第一回修了のご報告
9月6日から同12日まで、北海道は札幌市白石区菊水にございます顕本寺さまにて、法要のプロの僧侶を養成する【声明師養成講習所】という修行をして参りました。
場所は周知の、すすきのの隣で、豊平橋という短い橋を渡ると住宅街のような街が広がり、そこが菊水なのです。すすきのは明るい街並みですが、たった一つの橋を渡ると世界は一変し、静かな街並みになるところが何ともおもしろく感じたところです。
さて、声明や声明師の説明は以前にさせていただいたかと存じますが、この資格をとるための修行は、思いの外、つらいものがあります。
簡単に予想がつくところでは、正座でしょうか。今の時代、外国人どころか日本人ですらも正座不得意者が続出しています。昔は便器も和式でありましたし、学校で正座をして授業を受けるのが当たり前なんてこともありました。しかし、今や洋式文化が栄え、また、正座は膝を悪くするなどの説も浮上したことから、日本人の古き文化が少しづつ消えてゆきつつあります。なんなら、僧侶が椅子に座って法要を行う時代になってきております。ですから、昔でしたら正座を「修行」だなどと思う方はいなかったでしょうが、昨今はまず何時間も正座しながら何かをすることから修行が開始します。かくいう私も正座が苦手なので、これにはいつも泣かされます・・・。
秋のお彼岸法要のお知らせ
夏休みも終わり、時は9月になりました。今年はやけに異常気象の発生が多く、不安定な天候のもと、私たちは自身の体調に気をつけながら過ごすことになりました。
さて、9月といえば秋分の日、秋のお彼岸の月でございます。日本ではお彼岸の法要、すなわち「彼岸会[ひがんえ]」が古くから営まれてきました。佛教発祥のインドや、日本に入る前に伝わった中国でも行われていない日本特有の一大法要です。この彼岸会は、春分の日(3月)と秋分の日(9月)という、天文学的に珍しい両日に行われています。
そもそも「彼岸」とは「涅槃の境地」、つまり簡単には「覚りの境地」のことで、これに対になる言葉が「此岸[しがん]」、つまり「迷いの境地」です。私たち衆生はいま此岸におり、将来に彼岸へ到達することを目指します。すると、彼岸会というのは何をする法要なのか、がわかってくるかと思います。すなわち、自分のご先祖様が無事に彼岸へ至り、ひいては成佛してくださいますよう、お祈りして供養するのが、彼岸会を修する意義なのであります。参詣される善男子・善女人の皆様にも、そのようなお気持ちを持って法要に参加していただければと思います。
この度の秋彼岸会には、住職の高校同級生である柳家小はん師匠にお越しいただき、落語をご披露いただけることになりました。どうぞ、お早めに当山にお越しになられ、お楽しみください。数多くの参詣者の方々のお出でをお待ち致しております。
平成29年度 秋季彼岸会 9月23日(土・祝)
落 語:午後一時より客間にて
卒塔婆供養:午後一時半より本堂にて
法 要:午後二時より本堂にて
第11回 法話の会 のお知らせ
異常な暑さが続いたかと思えば、いまや、蒸し暑くも、まぁ涼しい日々になり、天気予報ではまた熱帯低気圧が出てくる恐れあり、と言っており、不安定な天気この上ありませんが、お体を崩してませんでしょうか。
さて、今月も当山にて法話の会を行います。早くももう11回目になりました。詳細は次の通りです。
第11回 法話の会 8月20日(日)
『戒名の起源と真の意味』
祈願法要:午後一時半より本堂にて
法話の会:午後二時より一階客間にて
茶 話 会:法話の会の終了後より一階客間にて
佛教徒にとって、もっとも印象深いのが戒名ではないでしょうか。現在では、亡くなってから菩提寺より戒名を授かるのが、むしろ主流になっておりますが、本来はどうあるべきなのでしょうか。
もともとは現在と異なる形であったのだが、現在の形がいまや常識とされてきている、という事例は、一般に数多くあるのではないかと思います。戒名もそのうちの一つです。これが、昨今、戒名が軽んぜられ、また戒名料が高いと非難される原因の一側面なのではないでしょうか。
本会では、戒名の元来の意味:「なぜ、戒名が考案され、授与されるようになったのか」を中心に説き、皆様には、戒名をどう想ってどう捉えるべきかを熟考していただきたく存じます。
どうぞ、こぞってご参集ください。
盂蘭盆施餓鬼会を終えて
昨日、当山本堂にて、盂蘭盆施餓鬼会を厳修致しました。この法要は、要するに「(8月の)お盆供養」と「施餓鬼供養」とが合わさったもので、年中行事の諸法要のうちで最も大きな法要の一つです。
当山檀信徒には、7月盆の風習の方々と8月盆の風習の方々、どちらもおりますため、7月には迎え盆法要として、8月には盂蘭盆法要として、年に二回のお盆供養を行っております。8月盆の供養の際に、餓鬼界に堕ちた諸霊位を供養し、その成佛を願う施餓鬼会も加えて盛大に法要を営むわけです。
もとより施餓鬼会は本来はいつ行ってもよい法要で、営むべき決まった時期というものはありません。ですが、餓鬼界は食物に飢え、喉のひどく渇く世界であるため、それを連想させる夏場に行うことが多いのです。
餓鬼界という、地獄の次に下である世界にくだってしまった諸霊位を救うということでありますから、先祖への感謝を捧げる法要とはまたちがって、祈祷供養に近いものがございます。そのようこともあって、普段よりも多数の僧侶によって法要をあげるべきと考え、毎年、他寺院から数人のお上人にご助勢いただきます。本年の施餓鬼会は毎年とだいぶ異なった式次第で進めさせていただきました。それゆえ、細かいところで私たち式衆の納得のいかなかったところも二三ありましたが、「良い法要でした」と喜んでくださった檀信徒の方が多く、安心を致しました。
このように法要はその都度やり方や次第を変更したりし、定型というものがあるようでない感じです。そのため、法要に関するプロの上人というものがどうしても必要であり、それを声明師といいます。実は当山住職も、その声明師であります。私副住職も声明師を目指すことを決意し、先々月にその養成講習所へ入所できるかどうかの試験を受けて参り、ありがたいことに合格をいただき、本年の9月に声明師養成講習という一週間ほどの修行に行くことが決定致しました。声明師の資格を取得するのは難しくなってきており、おそらく数年かかるとは思いますが、精進を重ね、必ずや声明師になりたいと考えております。
それゆえ、9月の上旬は、私は当山を空けてしまう状態で、例えば年回忌法要などを始めとした、一切の法要をお受けすることができません。申し訳ございませんが、どうか皆様にはご了承をいただきたく存じます。
大変、お暑い気候ですし、台風も上陸したといいます。どうぞ、お体のほうご自愛ください。
平成29年度迎え盆・新盆法要の案内
7月はお盆の時期ですね。正確には13日から15日まで(16日までとする説もあり)がお盆の期間です。8月にもお盆があり、むしろこちらのほうが、世の中に「お盆休み」があることもあり、メジャーかもしれません。8月のお盆は旧盆といい、やはり日にちは同様に13日から15日まで(あるいは16日まで)でありますが、なぜ二回もお盆の時期があるのか。それは暦が旧暦から新暦に移行した際に生じてしまった約一ヶ月の“隔たり”が招いたものです。しっかりとした決まりは特にないようでありますが、大雑把には、関東地方では東京都は7月をお盆とし、それ以外の県は8月をお盆とする流儀になっているようです。
さて、当山では毎年7月13日に午後4時から【迎え盆・新盆法要】を行っております。
迎え盆法要とは、本来、僧侶が壇信徒のお宅へ伺い、精霊棚の用意された佛壇前で法要をあげる、いわゆる「棚行」というものが形を変えたものです。すなわち、逆に壇信徒の皆様がお寺にお越しになられ、一同全員の志すところの諸精霊に供養を捧げるのです。
また、新盆法要とは、新盆にあたる諸精霊に懇ろに供養を捧げる法要です。
これら、二つの法要を合わせた形で、各霊位の灯篭(上図参照)を灯し、壇信徒も共にお経(お自我偈)やお題目(南無妙法蓮華経)をお唱えします。おそらく、この形式の法要は当山特有のものであろうかと思います。
皆様で、お盆の季節に戻ってこられる各ご先祖様方を温かい心でお迎えして供養し、感謝の意を捧げましょう。
第十回 法話の会 のお知らせ
本年ももうあと半分となりました。最近、多忙になったせいか、已然よりも時の流れを大事・大切に考えるようになり、ちゃんとやるべきことをやって過ごさなくてはならないな、と思うようになりました。皆様への法話(つまり伝道)、そしてそのための勉学も、その「やるべきこと」の一つであろうと感じております。
さて、今月も当山にて法話の会を行います。詳細は次の通りです。
第十回 法話の会 6月18日(日)
祈願法要:午後一時半より本堂にて
法話の会:午後二時より一階客間にて
茶 話 会:法話の会の終了後より一階客間にて
「浄土」というと、たいがいは浄土教で説かれる《極楽浄土》のことを指しますが、日蓮宗ではこの極楽浄土でなく、《霊山浄土》という、別の浄土への往詣を目標とします。このように、「浄土」と一口にいっても、様々な浄土があります。
結局のところ、浄土とは何なのでしょうか。また、宗派が異なると目指す浄土の種類は変わりますが、結果、「浄土」を目指していることにはかわりありません。ならば、なぜ佛教徒の私たちは浄土を目指すのでしょうか。そもそも浄土とはどこにあるのでしょうか。死後の世界?それとも現実の世界??
必ずといってよいほど、いつも説かれる「浄土」という思想を、上記のような問いかけに答える形で、なるだけ平易にお話ししたいと思います。
皆様方のご参集をお待ち申し上げます。
第九回 法話の会 のお知らせ
なんだかんだと、法務がつづき、直前のご連絡になってしまいました。
今月は法話の会が21日(第三日曜日)に行われる予定です。お題は
であります。
私たちが何気なく行っている会話、この中に用いられている数々の言葉に、佛教で当初誕生した、いわゆる佛教用語が、思いの外、たくさんあります。
本会では、三文ほどの、なんということのない文章を提示し、皆様にその各文のどこに佛教用語が含まれているのかを考えていただこうと思います。正解できたからどうであるとか、不正解であったからどうであるというようなことは一切ありません。「ひょっとして、これじゃないかな?でも、だとしたら、これの本来の(佛教での)意味は何だったのだろう?」と、思考を巡らしていただくのが、今回のねらいであります。
どうぞ、気構えずにご参加ください。思ったように発言していただいて結構ですし、自身のある方はジャンジャン当ててしまってください。皆様にお考えいただいたのち、答え合わせを致します。
多くの皆様方のご参集を、心よりお待ち申し上げます。
* * * * * * *
第九回 法話の会 5月21日(日)
祈願法要:午後一時半より本堂にて
法話の会:午後二時より一階客間にて
茶 話 会:法話の会の終了後より一階客間にて
第八回 法話の会 のお知らせ
いよいよ4月になり、新学期となりました。
今月は法話の会が16日(第三日曜日)に行われる予定です。お題は
であります。
法華経は数多くある経典のなかで世界中で最も多く読まれているお経であり、特に我らが日蓮宗ではこの法華経のみを信仰しています。
およそ6世紀に活躍した中国天台宗の開祖 天台大師智顗[ちぎ]は、すべての経典のなかで法華経こそ最も優れた経典であることを論証し、その理由に他の経典には書かれていない二十のありがたい教えが説かれていることを指摘しました。その二十のなかの二つに、提婆達多品第十二に説かれる「悪人成佛」と「女人成佛」とがあります。本会では、これらについて易しくご説明をしたいと考えております。
「悪人成佛」とは、大雑把には、成佛する資格のなさそうな悪人でさえも成佛できる可能性が実は充分にあるという教えで、これが大変にありがたいお教えなのは誰もが理解できます。ところが一方、「女人成佛」とは、女人すなわち女性の人間は成佛できる可能性を充分に持っているという教えであり、現代の我々からすると、このお教えのどこがありがたいのか、理解しがたいかもしれませんね。
ひょっとして、女人も悪人と同様に成佛する資格がないとでも、昔のインドでは思われていたのだろうか…??
いろいろクエスチョンが出てきますね。その答え、というべきか、詳細は本会で丁寧にお話しさせていただきます。もしかすると最初は女性の方は気分を害されるかもしれませんが、最後には気分よく、前向きなお気持ちに転じてお帰りいただけるかと思います。どうぞ、楽しみになさっていてください。
多くの皆様方のご参集を、心よりお待ち申し上げます。
第八回 法話の会 4月16日(日)
祈願法要:午後一時半より本堂にて
法話の会:午後二時より一階客間にて
茶 話 会:法話の会の終了後より一階客間にて
第七回法話の会のお知らせ
早いもので、ついこの間お正月を迎えたばかりと思っていましたのに、もう2月です。最近、時の流れの速さに恐れをなしているところです。
さて、今月は19日(日)に法話の会が当山で開かれ、これで七回目となります。お題は
であります。
名号とは、いわゆる“御念佛”として知られる「南無阿弥陀佛」というような文句のことであり、一方、題目とは「南無妙法蓮華経」という文句のことです。
御念佛は主に念佛・浄土教の方々が発し、御題目は私たち日蓮宗のような法華教の人々が発します。これら二句は各々の宗派の高祖のお答えなわけです。
では、これらの意味は何であって、どこにそれらのちがいがあるのでしょうか。
まずは「南無」の意味から解きほぐし、最終的に日蓮大聖人のお答えである御題目「南無妙法蓮華経」の大まかな意味をお伝えできれば、と思っております。この教説はありがたく感じるものの、理解する(腑に落とす)のが容易でなく、聴いてすぐに自分のものにできるとはなかなか限りませんが、長い時間をかけて御題目や、他宗の方々は御念佛などの名号について想いをめぐらせてゆくのも悪くないのではないでしょうか。本会が皆様にとってそのスタートを切るきっかけとなれますよう、務めたい所存でございます。
ところで、今月すなわち二月は佛教と日蓮宗とにおいてとても重要な月であります。
15日(年不明2月15日、北伝)は佛祖であられるお釈迦様が亡くなられた日、そして16日(1222年2月16日)は我らが高祖日蓮大聖人の誕生された日なのです。そのようなわけで、本会の、参集者一同に対する祈願法要はいつもより早い午後一時から始め、お釈迦様と日蓮大聖人とに報恩感謝を捧げたいと存じます。どうぞ、お間違えのなきよう、お気をつけください。
法話は午後二時から始まり、終わり次第、茶話会に転じたいと思います。本会中、何かご質問等ございましたら遠慮なさらずにお尋ねください。
宗派は問いません。皆様方、特に、是非とも より多くの当山壇信徒の皆様方のご参集をお祈り申し上げます。
新年のご挨拶と法話の会のお知らせ
皆様、新年明けましておめでとうございます!
今年は酉年[とりどし]でございますね。昨年は申年[さるどし]で、“去る年”ということで、縁起の悪いものなどを一切捨て去り、翌年の酉年から、また新たなスタートを切るなどという、験[げん]担ぎをされていらっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。当山は、従来の風習として行われ続けていることを除いては、あまり験担ぎをすることはありませんが、また今年も一年、やれるだけのことを懸命にやり、精進をして参りたいと思います。そのすぐ傍らに、当山壇信徒の皆様方が変わらずいてくださることを、つよく祈念申し上げたく存じます。本年もどうぞ、よろしくお願い致します。
さて、当山は昨年の二月より、副住職による【法話の会】を開催致しました。ペースとしては1ヶ月置きといった感じでありましたが、いつもお見えになられる当山壇信徒様から「毎月お願いしたい」との旨を拝受し、ならばということで、今年は三月・七月・九月を除いて毎月第三日曜日に開くことに致しました。各回のお題および内容や、詳しい日時につきましては、同ホームページ〈年中行事と会の案内〉をご参照ください。
かようなわけで、早速今月に法話の会がございます。日時は15日(日)の午後二時からで、お題は
であります。
もはや皆様に大変馴染み深いタイトルですね。しかし、皆様が「お布施」と聞かれますと、大概の方々が「イコール 寺に納めるお金」と解されるのではないでしょうか。実はこれ、間違いです!「イコール」としてしまうのがいけないのですね。確かに寺にお金を納めることは、形として立派な布施であります。けれども、それがすべてではありません。布施にはまだいくつか別の意味があるのです。
そのような基本的なお話から始め、皆様の誤解を解きつつ、最後に布施の(少なくとも一般信者が持つべき)本質や、大切なことをお伝えする形でお話をまとめられれば、と考えております。
宗派不問、気構え不要。当山の法話の会は、ご参集くださる皆様と和気あいあいと交流を図る場でございます。そのため、法話終了後は皆様と茶話会を設けております。気軽にご質問ください。また、法話の会の開始前、午後一時半よりご参集者方に向けて祈願法要を致します。よろしければ、こちらのほうもご参加ください。
多くの方々のご来集を心よりお祈り申し上げます。
法話の会のお知らせ
今月は法話の会の月です。今回のお題は、
でございます。12月18日(日)の14時から当山本堂にてにて開催致します。
私は、お葬儀を修しますとき、必ずと言ってよいほど、初七日や四十九日の法要とは何のために行うか、をご説明しております。しかし、お葬儀というのものは、火葬のお時間などが理由となって、どうしても時間の制約が厳しく、現代においてはしようのないこととは理解を示してはいても、思うように詳しく丁寧にご説明できないことに不満と若干の苛立ちとを感じております。大切な内容でありますから、どの方にも真剣に聴いていただき、また心にとどめていただきたいため、普段のお葬儀でのご法話をだいぶ肉厚にし、ゆっくり皆様にお説きしたく、今回のお題を上記のごとくした次第であります。
私は時代が移り変わってもずっと残り続けてきた(伝統的な)行いというのは、一応はちゃんとした、それを行う動機や根拠をそれなりにもっているのだろう、と考えています。それは佛教の古い経典や物語などを読む度に、つねに感じることでございます。昔の人は想像力と心とが豊であったのだなあ、と感嘆することすらあります。今回の法話の会は、それを強く感じていただく会になっているかと存じます。佛教徒なら誰もが行うお葬儀・回忌法要の意味や意義について、ぜひ当山にお出でいただきお聴きになられ、佛説というものにお耳を傾ける習慣を身につけていただきたいとお祈りします。
ご希望者には法話の会の開始に先立ち、13:30より祈願法要を行います。どうぞご参詣ください。また、会の終了後は、毎回茶話会を当山一階の客間にて開いております。お越しくださった皆様と楽しく和やかにお茶を飲みながらお話をしたいと思います。今回はこの茶話会にて、ご参集の皆様にお葬儀の手順や手引きのプリントを配布し、今後のご供養の一助になりますよう、尽力したく存じます。宗派は問うておりませんので、もしよろしければ、ご友人等とお誘い合わせの上、どうぞお越しください。
なお、来年に入りましてからもご報告させていただきますが、いつも法話の会にご参加くださる方々から、毎月行ってほしいとのご意見を頂戴し、検討しました結果、ひと月置きに行っていたこの法話の会でありますが、来年からは3、7、9月を除いて毎月開いて参ることにお決めしました。皆様にはご足労をおかけすることになるかもしれませんが、どうかお寺にお詣りに行き、お佛像や佛教話、佛教の風習に触れることの貴重さをご認識いただきたいと思います。
皆様、日々のご供養等のお勤めのほど、どうぞご精進ください。
真養寺メールアドレスの利用開始について
皆様にお知らせを致します。この度、当山は、真養寺のメールアドレスを作成致しました。アドレスは次の通りです:
(本ホームページ『交通などの案内-連絡先』も参照)ただし、本ホームページではどのページにおきましても、転載・転用防止のため、アットマークは全角文字で記載してございます。今年になって当山はこのホームページをお作りしましたが、時代の変遷に伴い、当山のメールアドレスもお作りした次第であります。ホームページと併せてご利用いただければ幸いです。
基本、ご法事のお申し込み、年中行事や会合の出欠などのお旨を当山にお伝えいただく際にご利用ください。特にご法事のお申し込みをなされるときには、《法事の趣旨、日にち、時刻、出席人数、食事の有無(昼刻の場合に限る。有の場合は申込人数を明記)、卒塔婆の施主名(フルネーム、ふりがなつきで)、生け花の有無》をご明記ください。
また、ささいなご質問でも承りますので、当山にお尋ねされる上での一つのツールとしてもお使いください。
さらに、ご希望される方には、メールアドレスをお教えいただければ、会合のお知らせなどをご通知させていただきます。かように、当山としましては情報提供のツールとしても活用してまいりたいと存じます。どうぞ皆様、ご周知のほど、よろしくお願い申し上げます。