当山の歴史
廣布山眞養寺の開創
運千山真養寺はもと広布山[こうふざん]と号し、寛永2年(1625)、真行院日曉上人によって江戸下谷三枚橋に開創されました。
高崎藩(56,600石)の二代藩主 安藤重長[しげなが]をはじめ、譜代旗本 横田述松[のぶとし](5,000石)らの外護によったと伝えられています。『寛政重修諸家譜』によると、安藤重長はこの年、父 重信の遺領安堵の朱印状を秀忠から賜っており、その報恩のため真養寺の外護にあたり、江戸における祈願寺と定めたといわれています。
寛永12年(1635)、参勤交代制度が確立します。諸藩の大名は妻子を江戸にとどめ、藩主は原則として一年交替で、江戸と領国に住することになりました。
各大名はそれぞれ江戸府内に上中下屋敷を建てる必要に迫られ、木材や石材などの需要が高まります。のちに真養寺の大檀越[だんのつ]として外護を寄せる吉田勘兵衛が、摂津[せっつ]国(大阪府)から江戸へ出て、木石材商を営むのもこの頃のことで、正保年中(1644~1647)には日本橋本材木町に店を構え、幕府の御用をはじめ、各藩邸の木石材を一手に賄[まかな]うほどになっていました。
慶安3年(1650)3月の江戸大地震で再び巨利を得た吉田勘兵衛は、江戸隅田川沿いにある湿地帯の新田開発を思い立ち、試みに千住の音無川流域の湿原2,240坪を干拓し、その実績をもって幕府に新田開発を請願しますが、荒川(隅田川)沿岸のとくに江戸府内側は、奥州外様大名の防備にあてられた重要地帯であり、幕府の許可が下りなかったことから、横浜村の入り江を干拓することにしました。
運千山自性寺の開創
真養寺と自性寺との合寺
元禄元年(1688)3月、下谷真養寺の境内地が上地となり、同年4月、幕府によって「古跡・新地」の区別が定められました。これは寛永8年(1631)以前に建立された寺院を古跡寺院、以降に建立された寺院を新地寺院として分け、古跡寺院が焼失・損壊した場合はその再建を許可するが、新地寺院の再建は一切許可をしないというものです。
真養寺は古跡寺院であり、自性寺は新地寺院であったことから、元禄2年(1689)に、本山の命[めい]によって真養寺を自性寺に移して合寺し、現在の寺院名である「運千山真養寺」と号しました。このおり、自性寺の自性院日身上人を中興第5世とし、真養寺の速成院日圓上人が第6世を称しました。
この頃になると、飯高檀林に学ぶ学僧はつねに500~600人に達したといわれ、真養寺に留錫[りゅうしゃく]する学僧のために学寮が建てられ、飯高檀林の研究機関的な役割を果たしていたともいい、触頭[ふれがしら]に準ずる寺格を有していました。
のちに、当山第8世 圓明院日現上人は、飯高檀林第91世の能化[のうけ]に晋[すす]み、当山第10世 大惠院日文上人も飯高檀林第139世の能化となって、宗門隆昌に尽力していることも証左の一つといえましょう。
日性上人の尽力と寺運隆昌
火災・洪水による災禍
明和9年(1772)、俗に「目黒行人坂の火事」と呼ばれる大火が起こります。江戸府内外に起こった事柄を年表体に綴った『武江年表』によると、真養寺周辺も類焼したと記されています。寛政3年(1791)に当山第13世 勇猛院日逞上人によって記された『真養寺旧記』によると、「-旧記これあり候ところ、先年焼失のみぎり紛失致し候-」(原漢文)とあり、このおりの火災によって真養寺も類焼していることがわかります。
江戸時代の寺院の大半は、火災によって二~三度は類焼していますが、真養寺が火災と洪水とによって蒙った災禍は数え切れません。しかし、その都度、檀信徒家の外護[げご]によって再興されてきました。
明治維新と廃佛毀釈
奥州街道拡張、境内地の分割
明治40年(1907)、奥州街道の拡張によって真養寺の境内寺領地が二分され、開創以来の寺容は一変してしまいました。「王政復古」による神祇崇拝の風潮下にあり、これを阻むことは不可能でした。
しかし、檀信徒が真養寺に寄せる信施は変わることなく、太平洋戦争の空襲禍によってすべてが烏有と帰しても、歴代住職のもとに結集して寺門を支え続け、今日の繁栄を見るに至りました。
運千山自性寺の開創者 吉田勘兵衛
吉田勘兵衛[よしだ かんべえ]は慶長16年(1611)、摂津国能勢郡[せっつのくに のせごおり]吉野村(現在の大阪府豊野郡能勢町倉垣)に生まれ、諱[いみな]を「良信」といいます。
寛永11年(1634)、23歳のおり江戸に出て、木・石材などの売買を営みました。徳川家3代将軍 家光が江戸城の城郭を修理するにあたり、木・石材の用達を命ぜられるとともに、参勤交代制度の確立によって、各大名屋敷の建設、町屋の建造などが盛んになり、またたくうちに巨利を手中にしました。
勘兵衛ははじめ隅田川沿いの湿地帯の干拓事業を思い立ち、試みに千住中村の音無川流域の湿原を干拓したうえで、幕府に干拓による新田開発を請願しますが、隅田川は江戸城防衛の重要地帯であることから許可にならず、たまたま商用のおり見た横浜村の入り江が両岸の台地の土砂によって容易に干拓できると判断し、この入り江の干拓事業を幕府に請願しました。
干拓の鍬初[くわはじめ]は明暦2年(1656)7月17日で、勘兵衛46歳の時のことです。ところが翌3年5月の豪雨によって、事業は一時中断の止む無きに至りました。事業再開を期す勘兵衛は、万治2年(1659)、身延山に登って大願成就を祈願し、さらにかつて干拓した千住中村の地、2,240坪を寄進して外護[げご]にあたり、運千山自性寺を開創します。
勘兵衛はこの年に干拓事業を再開し、同9年の歳月をかけて完遂しました。いわゆる吉田新田がそれで、干拓された土地の総面積は百十町歩(百八十九町歩ともいう)、周囲の堤防の長さは三千五百五十七間、架けられた橋梁三十五か所といった広大なもので、現在の関内駅、横浜スタジアム、伊勢崎(伊勢佐木)町、長者町といった横浜市の中心部や、西区・南区の一部も含まれています。
勘兵衛が投じた総費用は、8,038両にのぼったと伝えられています。江戸時代の1両の金目[かねめ]は4匁[もんめ]4分[ぶ]ですから、8,038両の金目は35貫367匁、およそ130キログラム以上の金塊に匹敵します。現代の金の価格に換算すればその膨大さがわかるとともに、勘兵衛の信念の強固さと豪放さをもわかるといえましょう。
寛文11年(1671)、勘兵衛は事業の完遂を謝し、自性寺境内に鐘楼堂と法塔(供養塔)とを造立しました。法塔はいまでも、当山境内に現存しています(上図)。
勘兵衛は貞享3年(1686)7月26日、「法華経」の正式名称「妙法蓮華経」にかけた、
という見事な辞世の詩を残し、76歳で歿しました。法号は運千院常清日涼居士。
当山歴代諸上人
- 開 山 眞行院日曉上人
- 第2世 了源院日豊上人
- 第3世 仙興院日普上人
- 第4世 榮心院日實上人
- 第5世(中興) 自性院日身上人
- 第6世 速成院日圓上人
- 第7世 本明院日性上人
- 第8世 圓明院日現上人
- 第9世 壽明院日義上人
- 第10世 大惠院日文上人
- 第11世 蓮華院(潮文院)日承上人
- 第12世 本妙院日同上人
- 第13世 勇猛院日逞上人
- 第14世 圓行院日住上人
- 第15世 本德院日解上人
- 第16世 運千院日養上人
- 第17世 眞養院日運上人
- 第18世 堯善院日悟上人
- 第19世 心性院日輝上人
- 第20世 事相院日慧(惠)上人
- 第21世 相如院日曠上人
- 第22世 戒遠院日霑上人
- 第23世 戒珠院日饒上人
- 第24世 妙全院日底上人
- 第25世 戒祥院日篤上人
- 第26世 醇厚院日康上人
- 第27世 戒誠院日隆上人
- 第28世 慈厚院日歸上人
- 第29世 敎厚院日明上人
- 第30世 寛厚院日修上人
- 第31世 淳厚院日詮上人
- 第32世 理厚院日秀 染山教大(現董)