当山ブログ
本年の御会式を終えて
本日、無事に御会式を終えることができました。ご参集くださった檀信徒の皆様には、お題目をご唱和いただけましたこと、まことに感謝申し上げます。
さて、本年の御会式は、前のダイアリーでも述べました通り、恐れ多くも私が導師を勤めさせていただきました。本来は住職が導師を勤めるのが常でありますが、この度におきましては、「来年の声明師養成講習所の試験のための勉強をさせてほしい」ということで私から住職に直接交渉を致し、意外にもあっさりと承諾をいただき、本日のような法要を厳修できた次第であります。私におきましては、導師としての引導はだいぶ経験を重ねさせていただいておりますが、当山の年中行事、しかも御会式という大きな法要での経験は初めてであり、大変気の引き締まる思いでありました。
ところで、声明師養成講習所とは、日蓮宗の声明師を育成する講習会のことでありますが、声明師とは音楽法要のプロの僧侶のことであります。法要を一回でもご覧になられたことのある方はご存知のはずですが、法要の中でよく歌を歌ったりしますね。あの歌のことを声明というのです。実は、当山住職は声明師でして、総本山をはじめ、いくつかの寺院にて多くの僧侶を指導してこられました。私も小さい頃からいろいろとご教授賜り、その時にはあまりよくわかりませんでしたが、実際に僧侶になってからは住職からいろいろな教えを聞けましたことを、(今となって)とても誇りに感じております。
私も、師父(=父でありながら師匠である人のこと)の後を追い、この声明師を目指すことを決意したのです。弟子としての私の役目は、着実に勉強と研鑽とを積み、師父以上に多くのことを、未来の僧侶を含めた人々に教えひろめてゆくことでありましょう。それを体現して参りたい所存であります。檀信徒の皆様にも大切なことをしっかりとお伝えしてゆけたら、と思っております。どうぞ、今後ともよろしくお願い申し上げます。
御会式および万灯について
本年も早くも10月を終えようとしておりますね。9月までは暑い気候が続いていたのが、10月に入ってから突然、さも思い出したかのように寒くなりました。皆様、お体のほう崩されてはいらっしゃらないでしょうか?大丈夫でしょうか?
さて、10月は日蓮宗にとって大変重要な月であります。もう、皆様ご存知のこととは思いますが、日蓮聖人のご命日の月でございます。伝承によると、弘安5年(1282)10月13日が御入滅日とされているのです。
御会式[おえしき]とは、以前からご説明させていただいておりますように、日蓮聖人のご命日の法要で、年回忌法要とは異なって毎年行います。私たちは「命日」と聞くとマイナスな印象を受けがちでありますが、日蓮聖人の御入滅においては感謝の念を込めて、荘厳の枠から飛び出ない程度にむしろ前向きに厳修すべきと考えられております。御会式のまたの名を「宗祖報恩会[しゅうそ・ほうおん・え]」ということからも窺えますね。
それを代表する行為に、万灯[まんどう]の作成、があります。万灯とは「万の灯[ともしび、あかり]」のことでありますが、ここに「万」は「とにかく大きな/多くの」の意を表すための方便であり、「非常に華やかな灯」ということです。当山では毎年、この大きな万灯を、当山住職夫人 久江 の父 瑞照院日眞上人 の考案された流儀をお引き継ぎし、お作りしております。
万灯を作る理由にはもう一つあり、日蓮聖人が御入滅されたおり、時は10月であったにも関わらず桜の花が聖人のあたり一面に広く大きく咲いた、と伝え残されているのです。ですから、万灯といえば、ピンクや白といった色合いがベースとされております。これほどの大きな万灯は本山以外で作られることは割と珍しいようで、当山の名物と言えるかもわかりません。ぜひ、当山にお越しになられ、綺麗で鮮やかな真養寺万灯をご覧になられてください。写真を撮ってお収めになられるのも結構です。
本年の御会式は11月6日(日)の14時からになります。この度から当山副住職が法要の導師を勤め、住職は副導師(あるいは脇導師ともいう)として横から支える形をとらせていただきたいと存じます。その意味でも、真養寺はだんだんと変わりつつあります。どうか変わらぬご支援のほどお願い致し、重ねて御会式の皆様のご来集を心よりお待ちしております。
第4回 法話の会 のお知らせ
本年2月より、当山では副住職による【法話の会】をお開き致しました。当山は、年中行事が1月(新年祝祷会)・3月(春季彼岸会)・7月(迎え盆法要)・8月(盂蘭盆施餓鬼会)・11月(御会式)にありまして、奇数月に偏っております。そこで、‘空白’である偶数月(2・4・6・10・12月)の第三日曜日に法話の会を基本的に行おう、ということになり、おかげさまで過去3回、コンスタントな聴講者数に恵まれ、無事終えることができ、早くも第4回目を迎える運びとなりました。御礼を申し上げます。
今月は予定通り16日(日)に開きます。会場は当山本堂、会費は1,500円、開始時刻は14時から30~40分間ほどで、法話終了後、毎回のごとく本堂下の客間にて茶話会を開きます。皆様と楽しく談話できたら、と思っております。もし、質問などがございましたら、そのおりに気兼ねなくお聞きください。
今回のタイトルは『墓と塔婆、その意味と意義』でございます。なんとも、大それたお題であります。日本佛教の真骨頂ともいえよう話題ですね。最近はお墓詣りする方も少なくなってきており、それと同様に、塔婆建立も以前に比べれば日本全体で減少してきているようです。それなのにも関わらず、墓や塔婆についてお寺で詳しく説明がなされることが少ないようです。これに関して 現在の寺と檀信徒との交流や信頼関係・親密さの低下をその原因とする説もありますが、理由はともかく、それを良いことに、というのでしょうか、佛教評論家の方たちが葬式・墓・塔婆不要論を提唱したりしています。しかし、副住職の考えとしては実はこの理論に反対なわけです。不要とするその根拠として彼らが出してくる佛教知識に間違いはほとんどないのですが、その(いくつかの)知識から結論を導く際に個人的感情、つまり主観がだいぶ入ってしまっており、そこが少しまずいのですね。無論、自分でいろいろと吟味して自分なりの結論を下そうとすれば、主観が入ってしまうのはいささか仕方のないことです。だから、「これが私の思うところです」というのなら、(仮に最悪 頓珍漢な結論であったとしても)まだ結構です。けれども彼らの本を拝読したりしてみますと、彼らの多く(あるいは全員?)は「それが佛教の正しい考え方なのだ!」と、自分の結論ではなく、むしろそれが佛教(すなわち釈尊)のお教えなのだ、といった言い回しをなされているようです。だとするならば、知識や事実から結論を導く際には、あくまで自分を主とせずに、記録・記載の文面的事実から確実に読み取れることを その述べることの大半とし、何か(新たなこと)を結論する際には自分の考えに慎重になるべきでありましょう。そこが安易になされているような気がするのです。
本会ではそのようなことに留意しつつ、「墓の本来はどうであったのか?」「塔婆ができたキッカケとは何だったのか?」から始め、最終的に「墓・塔婆が誕生した時代から変遷した現代でも、それらはいまだ必要なのか?」といったことをテーマに掲げ、現代流の墓や塔婆の解釈をご紹介したい、と予定しております。
なお、ご希望の方には法話前の13時半より30分程度の祈願法要を行っております。法要は日蓮宗の流儀でありますが、法話は宗派を問うておりませんので、皆様お誘い合わせの上、どうぞご参集ください。
正座用いすの奉納のお知らせ
昨年12月に、当山は寺院改装および変革を決意し、本年より100名をゆうに越える檀信徒の方々からご寄付を賜り、温かいお心に深謝致しております。
これまでに、実際に目に見えるところでは日月偈唐幡の設置、大灯籠の配置などをはじめとし、数々の試みをさせていただきました。物欲ならぬ“佛欲”を出せば、まだまだ改善すべき箇所が山積しており、キリがありませんし、また切実な問題として“先立ちもの”の大変さというものがございます。すべての望みを叶えることを我慢し、たとえ小さなことであっても、できることから着実に進めてまいりたい所存でございます。特に、これからは檀信徒の皆様のことを考えた「改善」をも行ってまいりたいと考えております。
さて、この度、正座用のいすを9脚、当山本堂に揃えさせていただきました。当山本堂はいすにお座りいただく形をとらせていただいておりますが、檀信徒の皆様のなかには「いすだと、長時間座っていると腰が痛くなってしまうので正座のほうがよろしいです」と、正座を選ばれる方が何名かいらっしゃいます。しかし、それはそれで長時間ですと今度は足を痛めてしまうのでは、と思い、当山ではそのような方々のために正座用いすをご用意致しました。どうぞ、ご希望の方は気兼ねなくお使いください。
今月の聖語
日蓮宗では、毎月、日蓮聖人が実際に遺された書物から、ありがたいお言葉の一節(=聖語[せいご])をご紹介し、掲げております。
本年9月の聖語は、
であります。出典は『伯耆[ほうき]殿並[ならびに]諸人御書』です。
解説致します。人間、生きていれば誰しも、なかなか思うようにうまくゆかないなどという、ひどい困難にぶち当たる時もあれば、ひどい災難に見舞われることもありましょう。日蓮聖人は、そのようなときは、それは天から自分に与えていただいた“おはからい”だと思いなさい、とおっしゃっているのです。つまり簡単には、ポジティヴに考えなさい、というのです。その“おはからい”によって、自分は人として、また一回り成長させてもらえるのだと感じなさい、といったところでしょうか。例えば、宝石も原石のままでは輝かないけれども、身を削って磨かれてこそ宝石としての魅力が顕れるのと同じように、人も苦難と出逢って それを“お導き”だと信ずることによって養われる、その信心が、安穏な世界を照らす光のエネルギー源になってゆく、と云うのです。
日蓮聖人ご自身、生前にいくつもの法難に遭われました。今月は龍口[りゅうこう、たつのくち]法難の月でございますし(9月12日)、現にこの『伯耆殿並諸人御書』は、弘安2年(1279) 9月21日、静岡の熱原で起きた熱原法難において捕らえられた(その内、3名が処刑された)、聖人の弟子たちに宛てられた書状であります。
日蓮聖人は、この書状にて弟子たちに、意に沿わない事態への対応の仕方と、“導かれる”という信仰の姿勢とを説き示されたのです。
何かしら不幸なことがあると、「これは天から試されているのだ」と主張する人が多くあろうかと見受けられますが、日蓮聖人のお言葉は、この思想と少し異なります。この思想は、「お前だったら、この試練をどう乗り越える?」と聞かれているだけであって、その先については言及されていないと言えましょう。しかし、日蓮聖人は、どんなに辛いことがあっても、それは必ずや自分にとって良いこととして返ってくるものだと思うべきだ、と述べておられ、結果として人生を生き抜く力・前向きな気持ちを持ち続ける力、それらを私たちにお与えくださっています。
もし自分の人生に納得のいっておられない方も、もし最近よいことがないなと感じておられる方も、皆さんで一緒になって、日蓮聖人のおっしゃる この信心を持って前向きに生きてはみませんか?
読書閑話 H.28/8/25
皆さんは啓蒙書などを読むとき、「まえがき」をちゃんと読まれますか?物書きさんから言わせると、「まえがき」は本題でないから読み飛ばされがちであるのだそうです。私も以前は、そもそも読書自体が嫌いだったので、「まえがき」どころか、自分が仕方なく読まなくてはならないところしか読まないような性格でした。ですが、本が大好きになり読書が趣味になった頃、何の本であったか忘れてしまいましたが、「著者はまえがきも力を入れて書いているからどうしても読者に読んでもらいたい、だから、まえがきに書いたことに似た文を本編でも書き、後ででもよいから、どうにかまえがきを読んでもらえるよう促す」といった言葉を綴った本に出会ったことがありました。なるほど、と思い、著者の案の定 読み飛ばしていた私はまえがきを読んでみました。残念ながら書いてあった内容をすっかり忘れてしまいましたが、確かにこのまえがきを読む価値はある、と思った覚えがあります。
ところで、まえがきとは何なのでしょうね。その想いは著者十人十色でしょうが、一つにはその本の内容の要約という面がありましょう。つまり、内容の紹介ですね。第一章はこうこうこんなことを述べています、第二章は・・・、といった書き方です。住職が昔、知人からご自分の著書を謹呈されたおり、忙しくてどうにも一冊全文を読み切れない場合にはまえがきのみを読んでどんな本なのか、どんな意志で書かれた本なのかを把握し、本の感想を述べたお礼状をしたためていました。「ほお、賢いな。まえがきのそのような使い方があるのか」と、弟子(あるいは愚息)の身分ではありますが、そう感心したものです。もう一つにはその本を書いたことの意義や理由の表明という面がありましょう。それ以外にもいろいろありますね。
実は最近、私が真面目にまえがきを読むようになってから、読むようになったからこそ、まえがきから学べたことがありましたので、ここではそのお話しをさせていただこうかと思います。
私は、住職と高校の恩師との影響で、大学に入ってから哲学の書物を読むことが増えるようになったのですが、哲学自体の扱われ方や認識などが昔と今とでは変わってきているようです。例えば、とても有名な哲学者である三木清(1897-1945)の『哲学入門』(岩波新書, 1940年初版)で、三木は序論でこう始めます:
つづけて、その根拠として次のことを挙げています:
話の本筋から少々ズレてしまいますが、これは理由として間違っているのではないか、というのが私の見解であります。要するに三木の主張は「知っていることだから求め(られ)るのだ。それが何なのか全然知らなかったら気にも留めないし、目が向くことも(可能性自体)ない」といったことですよね。そんなことは必ずしもないでしょう。どういうものか知らず名前しか知らなかったとしても、知らないからこそ、それが何なのか気になって それの学習意欲が生まれることがあるのではないでしょうか。実際、私の知人にもう85歳ほどになられる官僚出の男性がいますが、彼は70歳で定年退職をしてから自分の人生を見直したところ、人生で数学を使うことが一度もなかったのだそうです。そこで彼は余生を数学を勉強する時間に充てようということで、退職してから直ちに市民講座に通い詰め、数学をいまだにひたひたと修学なさっています。このように、その学問の内容をよく知らない、だからこそ それがどういう学問なのか求めることもあるのです。しかし、冗談で述べたのか本気で述べたのかわかりませんが、三木がそう述べた根拠から当時の哲学のありさまが見えてきます。すなわち、哲学は学問として一目おかれていた時代だったのですね。だから、「哲学とは何か」という定義をしたり、「哲学をなぜ勉強するのか」といった意義を見出したりする必要が特別なかったのだと思います。あるいは、そんな気が起らなかったのだと思います。だから三木も安心して上記のようなことを述べた。
ところが、2012年に出版された、伊藤邦武 著『物語 哲学の歴史』(中公新書)のまえがきを読みますと、その一行目からこう書き綴られています:
そう、哲学の定義から始まっています。これはもちろん伊藤氏の定義でありますが、その真偽(?)はとかく、昔(例えば三木)と今(例えば伊藤氏)とでは序論の書かれ方が異なってきているわけです。ここには昔と今とで一冊ずつしか例を挙げませんでしたが、他にも例となる本があります。もし興味があられたらご自身で探してみられてください。
住職は大学と大学院とで哲学を専攻したのですが、住職の話によれば、大学に入って哲学の一番最初の講義で、先生から「もう哲学は堕ちるところまで堕ちたので安心してください。もう堕ちることはありませんから。」と冗談交じりに哲学が学問のうちで権力を失ったことを告げられたそうです。三木はこの時代より20年は前の人で、つまり“哲学安泰期”の人です。そこから時代は“哲学墜落期”に入るわけです。そして、それからしばらく経って住職が大学院に進学した頃になると、また哲学は人生哲学としての側面などが復活し、学問として生き血が巡り返ってきたといいます。でも、伊藤氏が現に行っているように、現在 哲学は昔と異なって定義が必要なのですね。これは哲学のみにとどまらず、どの学問もおおよそでもよいから「この学問は何をする(学ぶ)ものなのか」という定義をしなければならない、という時代になってきました。自身の専門の学問の定義をしない学者はろくな学者でない、とも言われるほどです。
このように、まえがきや序文を読むだけで、時代の変遷や学問のあり方の変異が読み取れることもあるのです。こう考えてみますと、今や通例となっているから書かれなければならないと思われている、たかが まえがきではあっても、されど まえがきであり、時にはその本の“動脈”になることもあるのではないでしょうか。読者はそれを意識してまえがきをちゃんと読み、逆に著者はそれを意識してまえがきをしっかり書くべきなのかもしれませんね。私は現在のところ そのように感じております。
「咲」と「笑」とについて
8月は13日から15日まで(あるいは16日まで)旧盆と呼ばれる時期ですね。私も何軒かの檀信徒のお宅に棚行に行かせていただきました。そのおりに、「供養」の説明を手短にお話ししたのですが、その説明のなかで漢字について二三の話を致しました。そのお話をここでもさせていただこうと思います。
さて、突然ですが、ここ数年、ずっとひっきりなしにお芝居のほうで活躍されている女優さんに武井咲さんがいらっしゃいますね。彼女の天真爛漫な笑顔には、まるでわざとらしさがなく、屈託も感じられず、私も好きな女優さんのお一人です。あれだけ活躍されていながら、なんと、私よりもずっと年下だというのだから(あれ?そうでもないかな?(笑))、びっくり仰天です!オリンピック選手の方々にしてもそうですが、自分よりも若い人たちが世の中で奮闘して自分の力を存分に活かして、その成果を出している様子を見ると、(私自身のことはさておき)なんだか誇りに思いますね。
ところで話を戻して、武井咲さんでありますが、彼女は下の名前を「えみ」といいます。そう、「さき」ではなく「えみ」です。「笑」ではなく「咲」です。彼女が日の目を浴びるようになったのは私が大学生の時分でありましたが、その時、私の後輩が彼女のことを「たけい さき」と間違えて呼んでおり、僭越ながらも「違うよ。たけい えみ、だよ」と注意した覚えがあります。でも、どうでしょう?もしかしたら、皆様のなかに、「あの子、名前の読み方間違ってるんじゃない?」「可哀想に、あの子、間違った読み方で名前をつけられてしまったのね」などと思われた方、いらっしゃるのではありませんか?
結論からいうと、「咲」を「えみ」と読むのは正しいのです。というより、むしろこちらのほうが「笑」よりも適切といえます。
わりと知られていないのですが、実は「咲」は「笑」の旧漢字なのです!両者とも「さく」と「わらう(えむ)」という二つの意味があるのです。いえ、本当のところ、どちらも元々は「わらう」という意味であったのです!では、なぜ「咲」に「さく」という意味が追加されたのでしょうか。国語学者の一説によれば、昔に中国の詩人が、花がいっせいにさく様子を「花咲(つまり、花がわらう)」と比喩的に表現したのですが、それを見た昔の日本人が「『花』と言ったら『えむ』でなく『さく』だろう」ということで「咲」を「さく」と読み、それ以来、「咲く」という表記がむしろ基準になっていったというのです。
別説には、「咲」と「笑」との間に旧漢字・新漢字などの関係はなく、本当は「咲」が「わらう」で、逆に「笑」が「さく」だったのだという、いわば“真実交換説”を主張されることもありますが、私は先にご説明した説のほうを採用しております。
とかく、どちらにしましても、「咲」を「えむ」と読むことをご存知であった方に、武井咲さんは名づけをしてもらったことがわかります。こうした内容の話を、ご本人に許可もなく失礼であったかもしれませんが、彼女に見事に似合った素晴らしいお名前の漢字を例にあげた法話をさせていただいたわけでございます。こう述べては余計なお世話かもしれませんが、彼女のお名前に関する誤解がもしあるようであれば、このお話がそれの払拭の一助にもなれば、と(笑)。
何の例であったのかといえば、このように、現在の認識とは異なった、あるいは、あまりよく知られていない読み方、使い方をされている漢字というものが、実は佛教にもいくつか現れたりするのだ、という内容のです。そちらの“本題”のお話も、いずれさせていただこうと考えております。佛教関連の用語に関してはもちろんですが、漢字にしましても、やはり物や物事の源泉を辿るのは楽しいですね。
先代住職長男の逝去をうけて
今年の6月19日の夜、当山第30世の長男、すなわち、当山現住職の実兄、染山勤が81歳を以て他界致しました。法号は宥閑院法秀日勤居士[うげんいん・ほうしゅう・にちごん・こじ]であります。
先代住職 寛厚院日修上人は66歳でご遷化されましたので、父親よりも15年も長命であったわけですが、これは立派なことだったと思います。できることなれば東京オリンピック(2020年)を自分の目で見届けてから旅支度をしたい、というのが当人の希望でありましたが、惜しくもその思いは叶わず、ガンが発見されてから1ヶ月ほどで早くもその荼毘に付する次第となってしまいました。進行性のガンであったということで文字通りあっという間の出来事を目の当たりにし、容赦なく人の命を簡単に奪うガンの恐ろしさを改めて痛感させられました。
故 勤氏は、頭脳と絵画の才能とに恵まれておりました。
野球が好きであったのですが、好きな球団などの選手の事細かいプロフィールや記録を暗記しており、生前、テレビに映る一人ひとりの選手のデータをすらすらと暗誦している姿を見て、抜群の記憶力を持っていることを思い知らされたものです。また、将棋の力にも長けており、強かったことも覚えております。けれども、それは元々の才能が大きい部分を占めてのことだと勘違いしておりました。もちろん、それもあったに違いありませんが、それだけではなかったのです。これは氏が亡くなったときに初めて知ったことでありますが、実は氏は新聞などの将棋の記事を切り取って収集し、詰め将棋などを始め、毎日のようにコツコツと将棋の研鑽を積み上げており、まさに氏の実力の根底にはその日々の努力があったのです。
また、絵を描くことも得意で、当山副住職が幼少期に氏の家に遊びに行くと、よく絵を描いてくれたものです。ある時は、ゴジラやモスラ、キングギドラがこぞって参集している絵を描いてくれたこともありました。しかし、その時に驚いたのは、絵の上手さだけでなく、その絵が個性に満ち溢れていたことでもあります。これはゴジラシリーズのファンならば旧知の事実でありましょうが、タマゴからかえる怪獣の代表格はモスラであり、ゴジラやキングギドラはすでに最初から誕生しておりタマゴからかえることはありません。ところが氏の絵は、ゴジラとモスラはすでに誕生していて地上を歩いており、タマゴからなんとキングギドラが生まれる(ある意味、掟破りな)ものであったのです!その躍動感には感動したものでしたが、副住職は当時「勤おじちゃん、間違ってるよ…?(^^;)」と思っていました。ところが今思い返してみると、キングギドラがタマゴからかえらないというのは作品の設定上の話であって、べつにタマゴからかえってはいけないなどということはないわけで、完全に映画作成側から植えつけられた、ファンたちの固定観念に過ぎないのではないでしょうか。氏はそのような固定観念に縛られず、自分の絵の世界というものを形成し、実にのびのびと描いていたのだと考え直すに至りました。
もちろん、プロの絵描き家ではなく、たまに描くくらいでありましたが、その絵画の実力が認められ、当山の属する本山堀之内妙法寺の境内の様子を描いた絵が、しばらくの間 妙法寺にて手拭いにして配布されておりました。この度、たった一枚だけ発見されましたので、当山の本堂下の広間に、二つの掛け軸の間に飾らせていただきました(図参照)。もし当山にお越しの際は、ご覧になっていただけたら幸いに存じます。
改めて、故 染山勤氏のご冥福を心よりお祈り致します。
読書閑話 H.28/8/13
このダイアリー・ページでは、私の読んだ本についてのお話しや感想などをも綴っていこうかと考えています。これがその第一弾です。
さて、私が大学生時代に読んだ本で『科学は不確かだ!』(R.P.ファインマン 著, 大貫昌子 訳;岩波現代文庫)があります。ファインマン博士は1988年に他界しておりますが、ノーベル物理学賞を獲ったアメリカの大物理学者で、大変有名な人です。それほどの科学の大家が、一見、絶対的・確実的な印象を受ける科学にも疑問と不確かさとがあるのだ、と主張した本ということで、私も興味を持って読んでみたのです。大貫女史の名訳もあって、非常に楽しく軽快に読める本でありましたが、私にはどうにも引っ掛かる点が一ヶ所あり、それについて私の感じたことを述べさせていただこうかと思います。
ファインマンはその本で、一つの分野(すなわち科学)が他の分野の人の考えに及ぼす影響という問題に取り組みたい、といった序文から始めますが、そうすると、“他の分野”というからには当然ながら自分の専門外の学問などに関して言及することになります。そのことに対し、彼は「ある一分野の考えが、他の分野の考えにおよぼす影響などを語ろうとすれば、かならず自分の無知をさらけ出すはめになるものです」と“危険性”があることを恐れ述べてはおきながらも、その問題に果敢に挑もうとします。そして、彼が科学の考えが生命論の考えに及ぼす影響について語り出そうとしたとき、彼はこのような間違った発言をしました:
正しくは【ベンゼン環】ではなく【ポルフィリン環】であるのですが、この間違いについて大貫女史は「ファインマンの思い違いと考えられる」と述べておられます。しかし私は、これは本当に彼の思い違いなのかな?と疑いを持っております。といいますのも、実は私は、彼がどれほど偉大な科学者であるかを重々わかっているつもりでありまして、彼ほどの秀才がこのような基本的なミスをするものか、という気がするのですよ。では、この間違った発言は何なのか?と問われますと、(自信があるわけではないので、ぼんやりではありますが)私は 本当は正解を知っておきながら、わざと間違えたのではないかと思っています。現に彼は序文で述べていたではありませんか、専門外のことを話せば少なからず自分の無知をさらけ出すことにつながる可能性がある、と。これをまさに、自分が一種の“犠牲”を払って、あたかも自分が葉緑素について知識不足であるように見せ、“証明”したのではないでしょうか。だとしたら、それもまた、なぜそのようなことをする必要があったのでしょうね。それは、私が思うに、このような、誰もが同じ方法によれば確かめられる科学的事実とかいった類のものではない、やはり人間が頭で考えて導き出すしかない哲学・思想的な思考に関しては、他者が述べたことをそのまま鵜呑みにせずに「あの人、こんなことを言っていたけど本当かな?」「彼はこう言っていたけれども、自分だったらどう考えるだろう?」と自分で再考すべきであることを、私たちに知らしめるためであったのではないでしょうか。
私が大学で時間・空間・物質の科学の講義を受けましたとき、このような話を先生から聴きました:
この言葉の意味は、発表者が間違ったことを述べてくれたおかげで、聴講者である私たちは改めてそのこと(その正しい事実)について思い出すことができた、それはむしろありがたいことであると、ポジティヴに受け止めているということです。とらえ方によっては嫌味を言われているような気もしますがね(笑)。このお話をご教授いただいたときには「え~!本当かよ?」と思いましたが、のちに数学教育に長けていらっしゃる大先生にお話しを伺ったところ、「外国の数学者には、大学の講義でわざと嘘を学生たちに教えて、自分たちで考えることの重要性を伝えようとしている人たちが何人かいるね」とのことでした。嘘を言ってはいけない、(時間にしても何にしても)正確さを重要視する日本では、まずありえない教育法でしょう。
このやり方を日本が真似する必要は必ずしもありませんし、成功するとは限りませんが、自分でもう一度考え直して、先に発言した人の考えと 自分が後で出した考えとを比較し、どれを選択すべきかを自分で決断するという行為は大切であるような気が致します。現代はネットによる情報社会といった側面が大部分を占めていますから、この行為は特にこれから重要さを帯びてくるのではないでしょうか。